昭和40年9月2日 朝の御理解
朝晩、唱えさして頂いております拝詞の(?)。「神も助かり氏子も立ち行く」というところです。「神も助かり氏子も立ち行く道が開かれましたことを真に尊いことでございます」という、ね、「有り難いことでございます」と。「神も助かり氏子も立ち行く」と、どんなことだろうかと。私共が立ち行ってさえおれば神様が助かって下さるとか、神様だけが助かられるというのじゃなくて、氏子も立ち行く、立ち行かなければならん。もう氏子が立ち行くようになったから神様が助かって下さるというだけではない。神の言わば、立ち行き方なんだ。ね。
それは家族にも申しますように、それこそ、鍋の中の(?)どげんかならば、ね、どうとか立ち行っておる、どうとかやっておる。何とかやっておると。この頃どうですかと、いやいやまあどうとか、何とかかんとかやっておりますと。何とかかんとかやっておりますというだけではいけん、ね。
やはり、立ち行きというものがです、神様のおかげで立ち行っておるという、その実感というかね、それがなからにゃいけん。神様のおかげを頂いておりましても、それを、結構な立ち行きを頂いておりましても、食べることに事欠かす、ね、言うならば衣食住に事欠かす。おかげを頂いておっても、それを当たり前のように思うておったんでは、神の助かりはないのです。ね。
神様は「神も助かり氏子も立ち行く道が開かれた」ということがです、「有り難い」と、ね。なら金光様の信心しておるから誰でもそれが、それが皆が道を辿らして頂いておるかというと、道は開かれておるだけで、その道を辿ってないということになれば、金光様の信心を頂いておりましても神様が助かって下さることにはならんのです。
神も助かり氏子も立ち行くということのおかげになってこなければならん。こんなに涼しくなりましたからでしょう、いつも、お広、あの、うー、その、内殿じゃない、外殿の御祈念を仕えさしてもらうところに蚊取り線香が、蚊遣りが焚いてあります。今日は焚いてなかったんですね、ですからもう、ここのお広前におらんでもね、ここの内殿の方におるんですよ、暗いの。いつも御簾がしてあるでしょう、中が温いんですね。中を、あっちん中からブーンブーンやってくるんです、もういくつも咬まれた(笑)、ね。
もう本当に有り難いことに、もう暑くなる口から、もう(かな?)照り頃から、ずっとあのお供えを頂いておりましてね、あの蚊取り線香の。おかげで今年はもう本当に蚊に刺されずにおかげで、えー、楽でした。御祈念の、うー、もうおかげで楽にできたんですけれども、こんなに涼しいなっておるからと言うて焚かなかったら、もうやらんと。御祈念が しにくいんですね。
私は今日、蚊に咬まれなかったら神様に、いよいよ助かって頂くことができなかったと、まあ小さい意味合いにおいてですね。私この、おー、私共が例えば御祈念をさしてもらう時に、おかげで蚊にも刺されずに御祈念ができたと、有り難うございましたというお礼をひとつも申し上げておらんやった。ああ、おかげ頂いてから、例えば(?)も蚊取り線香いっちょん買いもせじゃった、もう皆さんがちゃんとこう、あの、おー、蚊取り線香を焚くあの、香炉のようなあれまでおかげ頂いて、あの、あの台はあれはしたんですよね、あの香炉の台です。
それが神前に、こう焚いてある。だから、大変、まあ煩わしく、おかしくもない。それで御祈念をさして頂いておる私は楽に御祈念ができるんだけれども、本当に蚊取り線香のおかげで、おかげで蚊にも攻められずに、もう、心行くまで御祈念ができましたと。有り難うございましたと言う時にです、私共も立ち行っているのであり、神様も助かって下さっておるのですよ。
ところが蚊取り線香を頂いておりましてもです、楽に、言わば御祈念ができましてもです、それがもう当たり前のようになった時にはね、私共は立ち行っておるようですけれども、神様の助かりになっていないのです。ね。私共は本当に、この、当たり前、当たり前のように思う、当たり前になってしまう。
例えば椛目の、(?)教会なんかはそうなんですね、椛目というのはこのようにおかげを頂いております、私共家族の者、修行さして頂いておる者、ね、もう一事が万事に神様のおかげで立ち行かせて頂いて、ね、神様のおかげで寒い思いもせんですみゃあひもじい思いもせんで済むようなおかげを頂いて、思えば思うほどおかげを頂いておるのだけれどもです、おかげで神様のおかげで立ち行かせて頂いておるのですけれどもです、その神様のおかげで立ち行っておるということが感謝の心に、ね、神恩に報い奉ろうという心にもなってこないとするならばです、それは私共が立ち行っておるだけであって、神も助かるということになっていないのです。ね。
神も助かり、氏子も立ち行くということは、私共がおかげを頂いて、しかもおかげを頂いておることが有り難いと気づかせて頂いて、神恩報謝の生活、ね、有り難いという心が神様へ報い奉るところの働きになってくる。そして初めて、神も助かって下さるのであり、私共も立ち行くのですよ、ね。
形の上においてもそうでしょう、うっかりしておるでしょうが、私共。おかげを頂いたと思うたり、おかげでひもじい思いもしない、おかげ痒い思いをしない。それが蚊取り線香頂いてからこの方です、このひと夏を本当に、痒くもなからなければ煩わしいもない思いで御祈念ができるおかげを頂いておるのですけれども、ね、それを、今日、初めてもう蚊帳も焚かず、蚊が、何匹かの蚊がです、プンプン寄って来てから、私を攻め立てた。そして初めて気が付いた。はあ本当に今日まで無事に、無事って言えば、蚊にも攻められずに御祈念ができたということ。有り難い。ほんに相すまんことであったとこう思うてお詫びさせて頂きながら、改めて、まあお礼を申し上げたということ、例えば皆さんに聞いて頂いておるようなことを頂きました。ね。
神も助かりということはこういうことなのである、ね。ただ、私共が立ち行くということだけを願う。ね、そら願ってもいいのです、もう願わなければおられんのですから、もう願うがいいんです。願わなければまた神様も寂しい思いをなさるに違いはない。どうぞ願ってくれよと神様も仰っておるのですから、ね、立ち行きを願わなければならんけれども、その立ち行きのおかげを頂かせてもろうたその心が、心でです、有り難いと思う心でです、ね、日常生活が神恩報謝の真ともなり、神様が報いもちあげることをやってきて、おかげでひもじい思いをせんで済みます。おかげで煩わしい思いをせんで済みますと、神様にお礼を申し上げれれる時、初めて、よかったねと言うて神様も助かって下さっておられる、今度は喜びをまた、私共の上に見せて下さるでしょう。ね。
そこに、いよいよ、私共がそら、どうとかこうとかやっときます、もう蚊に喰われながら、ひもじい思いをしながら、まあ(?)は死んどらんもん、まあ蚊に喰われたからちゅって、別にこう、腫れ上がった、その別に、薬を付けなんというほどしでもないと。まあ何とかかんとかやっておりますというだけの立ち行きだけではいけない、いけないということ。煩わしい思いをせんで済むような立ち行き方というおかげを、立ち行きを願わしてもらい、立ち行きのおかげを頂かしてもろうたら、その喜びを持って、私共が神様にお報いを申し上げるところの生活、生業ということにならなければならんと思うのです。
皆さんが朝晩、唱えておいでられる、天地書附の一節なのですね。またそれを(はいしん?)を唱ってございますように、ね、神も助かり氏子も立ち行く道が開かれましたことが有り難い。ね。ですからその道を私共が体得さしてもらい分からしてもろうて、いくと、只今、私共が、私が今申しておりますようなことにも、おかしなことにもならんで、ね、お礼を申し上げるところにお礼を申し上げさして頂くところの生活。
そのお礼の印に神恩報謝の真を捧げていくことのできる生活ができるわけなのです。それがいよいよ完璧なものへ、完全なものへということになっていく時に、ね、いよいよ神様が助かって下さるのであり、いよいよ私共の立ち行き方がです、勿体無いような立ち行き方になってくるわけになるですね。どうぞ、本当に神も助か、神も助かり、私共も立ち行き・・・・(途中切れ)
明渡 真(7/7)